『ちょっと小話』

<誕生と幼少期>

時は昭和44年9月29日、杉並区の衛生病院で佐藤家の次男として誕生する。歳の離れた兄、姉がおり末っ子として大事に育てられたものの、歳の時に出来た子供ということもあり完全な放任主義であった。父の仕事でアブダビに移り住むまで三鷹市で育つ。ここが地元である。三鷹第三小学校で勉強は全くできなかったが、持ち前の性格からテストも宿題も周りのクラスメイトが代わりにやってくれていた為、小学校3年生の時点で担任が初めて、「足し算・引き算」すらできないことを発見する。急遽母親が呼び出され障害を持つ子が通う「特別学級」への転入を打診される。危うく退学させられそうになる程低脳児だったのである。

<不良>

特別学級にはいかなくなったものの勉強には全く興味が湧かなかった。小学5年生の頃テレビアニメの「あしたのジョー」に感化され後楽園ホールと帝拳ジムに通い出す。持ち前の社交性から後楽園ホール入り口のアルバイトのお兄さん達に可愛がられ、入場はフリーな上、社員食堂でほぼ毎日食べさせてもらっていた。小学生ながらボクシングコミッショナーからレフリー、医師、後楽園社長に至るまで人脈を広げていった。具志堅さん、ファイティング原田さんにはとても可愛がられ、17歳で必ずデビューしようとプロを目指し練習を積んでいた。学校には通っていたものの両親は海外、兄姉は下宿住まいで、一軒家一人暮らしで毎晩友達を集め好き放題していた。またジムで軽量級のプロと毎日スパーをしていた事もあり、多少ケンカも強く地元では悪ガキとして有名人になっていた。中学に上がると、成績は美術2以外全て1という見事な成績で担任から定時制高校も無理と言われ母親が爆笑、と同時に自衛隊(横須賀)と近所の精肉店、住吉会から中学卒業後のオファーを頂いた。そんな頃父親からアブダビに遊びに来いと魔の誘いがあり人生初の海外へ!

<アブダビ>

日本での素行不良を知らない父は、笑顔でいきなりアルファベットも書けない私を日本人が一人もいない現地校に放り込む。初日はストレスからくる高熱で倒れる。連日宿題が何かもわからず悶々とした日々を過ごしていたが、子供の脳は不思議なもので3ヶ月もすると普通に友達と会話をするようになる。もっと不思議なのは、その当時Microsoft Windowsもなかったのにコンピュータの授業があり、初めてコンピュータに触れた。まさかこれが生涯の職になるとは想像もしなかった。海外には義務教育という概念がなく、来たくなかったら来なくて結構、勉強したかったら徹底的に教えるぞというスタンス。これが自分に合っていたのだろう。写真は80年代アブダビ市内。

<ハワイ>

1980年代後半、アブダビの対岸ではイラン・イラク戦争の真っ最中。戦闘機で5分の位置なのでたまに大砲が聞こえたりしていた。アブダビは安全であったものの、危惧した父親がハワイの高校へ転入させる。なぜハワイかというと、私が生まれる前の60年代に家族が5年間住んでおり、知り合いも多く安心というのが理由である。高校はバブル真っ只中の日本からの留学生で溢れ、駐車場にポルシェが並ぶほどだった。日本人は皆性格のいい学生が多かったが、唯一の問題は私以外の全ての男子がドラッグ漬けだった事である。よく警察病院や強制送還の際に世話をした経験と勝慎太郎を弁護した日系人の木村弁護士の事務所でアルバイトをしていた事から、17歳で日本人留学生を支援する会社を設立する。ハワイ州の登記スタンプを取り、日系チャンネルに出演したりアクティブな毎日であった。入学手続きなどの業務はさほど儲からなかったが、ドラッグ、逮捕、妊娠などのトラブル対応でのスポットサービスが盛況だったのである。親は世間体が重要な有名企業の社長や役員なので、内密で処理できれば幾らでも喜んで払うのだ。高校も2年になると先生に恵まれたことから段々成績が上がりはじめる。ハワイ大学マノア校に進学したかったが、遊びすぎるからハワイの大学はダメと父親に言われ、当時休職をして夫婦でカンザス州立大学に通っていた兄を尋ねることにした。会社は高校卒業時に売却!

<カンザス>

楽園のハワイに比べると天国と地獄、カンザスは山も木もない平原でアパートの裏に地平線が見えるような場所で夏は40度、冬はマイナス20度まで下がる厳しい場所。公立大学に推薦入学し、州都のトペカに住みはじめる。気候が厳しく娯楽もなかったのが幸いし試験勉強ばかりしていた。そのおかげで成績は上位に食い込むようになり奨学金をもらえるようになる。2年生が終わる頃、年1人だけ州とフランス政府からの奨学金でフランス留学のできるコンテストに参加しないかと学部長に言われたが、周りは中高からフランス語をやっており、太刀打ちできないと半ば諦めていた。フランス文化の試験で教科書400ページから出題されるものだったが、仕方なく、ノート表裏一冊/1日、ペン1本/2日を消費し、ひたすら書いて書いて間違えたら最初からやり直しという罰則を己に課し教科書を丸暗記して試験に臨んだ。もちろん満点で合格し周りからは「キチガイ」と言われてしまう。アメリカの大学はほぼ2週間毎に試験があり、お金を積まれても二度と勉強をしたくない地である。

<フランス>

コンテストも受かり、意気揚々とシャルルドゴール空港に着いたが、タバコを買おうと売店に行ったらフランス語が全く通じない。かなりショック。パリで飛行機を乗り換え大学のあるクレルモン•フェランへ(十字軍結成の地でパスカルの出身校)!移動が夏休み中だったので、教授の住む人口400人の村でお世話になる。旦那さんが猟師で夕飯のチキンから薬きょうがでてきた記憶がある。朝から村中が呑んで騒いでおり、おまけに樽に入れられブドウ踏みも経験…淑女だけが踏めるんじゃないのか?2週間ほど村にお世話になり授業が始まったが、フランスの大学は昼間からカフェテリアで学生がワインを呑んでランチをしており、アメリカに比べるとかなり開放的。語学研修を経て経済学部に進んだが、授業が終わると夜中まで皆んなで飲み明かす日々であった。クラスで横に座ってるモヒカンのパンクロッカーと仲良くなったが、期末試験前にいきなり試験の回答をもらい試験を受けると全く同じ問題が出題されていた。何故かと聞くと寮に住んでる若い講師が昨晩賭けに負け回答用紙を奪ったとのこと。フランスの寮は大学の違う学生も講師も住んでいてかなり変わった雰囲気。時速100キロを超えるイタリア製スクーターに乗り、大学が終わるとビリヤード場に通う毎日で学生生活を満喫していたが、そろそろ就活か…ということで就活のルールも分からず、製造業は日本の誇ということで(株)デンソーの人事に年末近い11月に問い合わせる。FAXで履歴書を送ったら即折り返しの電話があり「いつ帰国予定ですか?」と聞かれ年末に刈谷本社に行く事になった。断られるのかと思ったのに…。写真はフランスの学生時代。

<デンソー>

リクルートスーツなんてものは知らず、KENZOフランスの四つボタンスーツ、ブルーのワイシャツ、薔薇柄のネクタイで本社人事に現れ、東京からの新幹線が実費精算と言われていたので領収書を出すと人事の担当が「グ、グリーン」ですかと絶句。英語の試験は満点だったもののSPIは散々だったらしい。おまけに役員面接で役員に「社長には絶対なる」と豪語し引かれてしまった。12月に入社試験を受けて翌年の4月に入社したが、何故そのような特例が許されたのか?そもそも何故受かったのか?この答えは、後から知ったのだが私が入社してから3年後にトヨタ自動車がフランスのバロンシアンヌに工場を開く事を決定しており、フランス語のできる人材を採用して一から生産管理をたたき込む計画だったらしい。

<かなりブラック>

新入社員研修中に朝まで飲んで寮に戻る途中、24時間電気の消えない本社ビル3階をみて「うわー狂ってるわ」と笑っていたらそこに配属になる。そこはトヨタ営業部といい、デンソー全拠点の生産管理を束ねる全社売り上げの4割を担う部署であった。毎月トヨタ自動車から生産計画マスターが配布されると朝9時から翌朝5時勤務というのもザラだった。先輩社員が蒸発することもよくあり、わたしも一度明治大卒の体育会系バブルの先輩にカンバンで殴られふと我に帰ったら名古屋行きの東海道線に乗っていたことがあった。「ま〜終わったな」ととりあえずバイト探しだということでコンビニでフロムAを買いデニーズで履歴書を書く。「旗振って一日12000円ポン!」と書かれた募集があり、中川区の事務所を尋ねる。要は工事現場で旗振って交通整理するバイトだが、金髪のヤンキーお姉さん達に親切され2日間の研修を受けることになった。翌日、就活を始め庄内通にある進学塾英語講師の応募試験を受け受かる。翌月から働き始めることになった。ふと2日ほど風呂にも入らず栄のクラブを徘徊していたことに気づき、一旦昼間の小山寮に戻り大浴場で体を洗い部屋で昼寝をしていると、いきなりドアをガンガン叩く音が…開けると室長がいきなり頭を下げて「何も言わずに戻ってきてくれ」。元の生活に戻った。あー、旗振りたかった。

<東山マダムの宴>

フランスで学生の頃、日本人の学生のおばさんがロンドンに住んでおりよく日本人何人かで遊びにいっていた。そのおばさんは、年の半分はロンドン、残りは名古屋という生活をしていて名古屋では東山に住む有名企業社長の奥様達のボス的存在であった。マダム達が、高級食材を囲んで宴を催していると独身だった私をよく誘ってくれた。ある時過労で参っていると、ひとりのマダムが「佐藤君、あなた教職持ってるんだからウチの千種のビルで塾長やらない?」と言われ満更でもない顔をしてると別のマダムが「佐藤君、先生なんていつでもできるんだからパパの会社見に行きなさいよ。パパにいま電話しといたから」と言われ2日後訪問することになった。耕作機械の会社とだけ聞き、トラクターの会社と勘違いしたまま面接に!

<ヤマザキマザック>

大口町にある本社を尋ねると耕作ではなく工作機械のメーカーであることが判明する。マダムは同社副社長の後妻だった。デンソーよりは小さいが従業員5千人の立派な企業である。役員面接で山崎専務(現会長)に1時間待たされていると長身に森英恵デザインの制服を纏った受付嬢がコーヒーを入れてくれた。一瞬でトキメキ、雑談を始めると何をやってる会社かわからないまま契約してしまう。社会人2年目にして主任という役職をもらい貿易部門に配属となる。デンソーと異なりアットホームな雰囲気の会社で仕事もせず、いつも受付をウロウロしていた。今ならストーカーで訴えられてしまうが、仕事終わりによく(毎日)受付嬢とお茶をするようになり、3か月後に結婚を前提とした交際が始まった。5月に初めて出会い、8月から交際し翌年2月に挙式をあげ、その1か月後にフランス支社への異動となった。冬のボーナスを全額おろし結納金、挙式代にしたためフランスに住み始めた時はほぼ無一文であったが、クルマを買わないと通勤できないと困っていたら奥さんがポンっとユーノスロードスターを購入してくれた…ということから現在でも奥さんが乗るクルマは好きな新車のみの購入と決まっている。フランス支社では山崎家同等の英才教育をとの副社長からのお達しで、営業、切削、システム管理まで任された。特に営業面白く、契約のサインはいつもパリの高級キャバレーで、LIDOと決まっていた。また1億の機械の購入前検査に来たお客さんに朝から工場でウイスキーをストレートで飲まし、誤測定のまま売ってしまいトラブルになったり、仲良しの鉄工所社長が資金難で困っていたのでジグ(工作物を取り付ける数百万する器具)を週末にトラックに括り付けあげたのが支社長にバレ首になりかけたりとメチャクチャであった。その後、鉄工所社長がそのジグのお陰でルノーから新規受注をしたらしく工作機械を3機発注してもらい首が繋がった。時は90年代後半、世の中がインターネットに沸いてきた。私もこの不安定なインターネットというものが如何に世界を変えることができるのか興味津々でったので、フランスから日本の転職活動をインターネットで開始。

<転職活動>

2000年夏、晴海で開催された工作機械見本市へフランスから出張。しかし目的は、転職斡旋会社、インテリジェンスの訪問であった。青山一丁目にあるオフィスを訪ねるとシーメンスとファナックを紹介されたが、両社とも付き合いがあり断っていると担当者が掲載期限の切れたNRIを提示。その場で同社人事に経歴書をFAXすると「今から保土ヶ谷に来れますか?」と聞かれ電車に乗って移動。翌日はフランスへ帰国する日であったが、日本橋の現場で面接をしてくれと言われスーツケースを転がしながら日本橋に向かった。そこで出会った旧野村コンピュータ出身の佐藤部長と小林課長。小林課長が「業界違うけど英語とフランス語ペラペラだってさ」と別の部屋にいた竹内本部長に伝えると「採用!」と即決だった。何故?当時このIDC事業部という新設部署は、海外アライアンスを強化しており今までNRIになかった営業力があって語学のできる人材を探していたらしい。フランスに戻ると犬猿の仲のA支社長が珍しく二人で飲もうといいとても友好的な雰囲気で会話が盛り上がった。日本でも上司だったのだが、団塊の世代でとかく学歴コンプレックスの強い人でよく嫌がらせを受けていた。翌朝、支社長室に行き支社長が「昨日は楽しかったなー」と言った瞬間辞表を提出した。あれほど気持ちのいい退職の瞬間は一生で最初で最後であろう。人事からは、海外赴任中に退職届を出した初めての日本人と言われ、本社の上役からは「佐藤君、もうマザックでやり残した事はないねー」と奥さん見つけたからそれ以上のものはないねという意味合いの事を言われた。

<野村総合研究所>

2000年10月より日本橋にあるIDC事業部で働き始める。ネットビジネスがブームとなりデータセンターを利用する顧客を獲得するのが主たる任務であった。右も左も分からない東京での営業は困難を極め半年間全く受注できない状態が続いた。そんな中先輩から引き継いだデジタルトランクサービスを提供する会社の担当を任されたが、そこで問題が…経理部がいきなり自席に現れ同社がデータセンター利用料を3ヶ月滞納してるというのだ。債権回収で原宿の雑居ビルに張りついても社長は一向に現れず。真夏に社員の人がくれた冷たいメロンジュースの味が今でも忘れられない。粘った挙句社長と面談することになった。Hさんと言ってとても怪しい風貌のオヤジだったが、話をしてみると人脈がすごいことがわかる。そこでH社長にデータセンター利用客を紹介してくれたら紹介料を払うのでそれで滞納分を精算するよう合意してもらった。最初に紹介されたのが新宿にある財閥系不動産大手。後に生涯の友人となる望月部長代理に見積書を渡すと「Hさんから話は聞いてます」と質問もせず即決済を経理に回してくれた。2件目は、築地にある国土交通省の外郭団体。O課長と面会すると押印された発注書が既に用意されていてびっくり!その後自身で開拓した日本進出外資企業からシステム、大型機器、コンサル等を受注し始めたが、前記外郭団体(建設系)の仕事は楽しかったのでほぼ毎日会社に入り浸り社員食堂で食べてると、社長(元国交省事務次官)が社員と勘違いし「ちゃんと本は読まなきゃいかん」と激励を受けるほどであった。建設系の仕事が増え、全国建設業協会で講演や建通新聞にも掲載されるほどO課長が私を業界で有名にしてくれた。業界も日本総研などの老舗企業のマンネリな提案に飽き飽きしててNRIが新鮮に見えたらしい。ある時O課長から国交省から電子入札の利用状況を調べる調査依頼が来たから手伝ってと言われ、埼玉県の高麗川駅で待ち合わせる。駅前に畑が広がり喫茶店もコンビニもない日本とは思えない場所だった。O課長と待っていると中年女性が車で迎えに来た。聞くところによるとお爺さんが社長、旦那は蒸発中、お母さんは経理部長という弱小の土建屋のようだ。私が電子入札に利用するパソコンを確認してると素行の悪そうな金髪のご子息が「おいババー、俺のバイク動かしたか?」と怒鳴り込んできたので、首根っこを掴みパソコンまで連れて行き小声で「お前、夜こんなサイト見てるんか?」とログを見せたら「すみません」と急に素直になる。ちなみにNRI時代の私はこのような風貌でした。

それからというもの経理部長(お母さん)から頻繁に連絡があり「うちの息子、佐藤さんの言うことしか聞かないんです」と相談を受けるようになった。上司、小林課長は部長になり私の入社以来みるみるうちに白髪だらけになってしまったが、着実に年俸を上げてくれ尻拭いも多々してもらった恩人である。部長の下で順風満帆な生活をしていた頃、家族検診で奥さんの肺に真菌症が見つかる。実家のある岐阜で大手術のしたが、空気の悪い東京は好ましくないと言うことで岐阜への移住を決意。知人の後押し、国交省の支援もあり岐阜のゼネコンに役員待遇で入社が決まる。NRIの送別会は週末も挟み2週間連続で行われ、その度に小林節が炸裂。帰りは中央線で一緒に小林部長荻窪、私国立で一度終電で寝過ごし冬の高尾駅に漂流。長蛇の列のタクシーを待ち、駅数は大してないやと乗り込んだら5千円。何だかんだで6年近くお世話になったNRIに別れを告げる。人間味のある天才肌が集まるいい会社でキャリアの中で一番激しく働きエンジョイした。

<市川工務店>

36歳にして地元建設業の専務取締役に就任したのはいいが、他の役員はほぼ皆60歳以上。部下の部長二人は52歳。3部署の長になり部下総勢63名を抱える事となった。財務担当役員としてバブル期に抱えた不良債権処理などを進めたが、日中他の役員とお茶を飲む以外にあまりやることがなく地元岐阜大学の院を受験する事にした。筆記試験、面接を経て都市計画に係る岐阜県知事、市長のご意見版である京大出身西村教授のゼミ生となる。公共工事に市川工務店を推してくれる事を期待しつつ!授業へは、黒塗りの社用車でキャンパスに現れ、放課後は現役学生に混じってガストで宿題をするかなり異色な学生であった事は間違いない。

財務関連に加え、地元財界の付き合いや講演会、専門誌への記事投稿と精力的に仕事をこなす毎日であったが、東京の頃とは違い会社の近所に住んでいた事から子供達をお風呂に入れる時間には帰宅できる人間らしい生活を送れるようになっていた。ただ業界柄付き合う人達の年齢層が2回りほど上になり、葬儀への参加が急に増えた。

2009年の夏に自民党が大敗し、業界内では公共工事を直撃する惨事に見舞われる。社内の雰囲気は殺伐とし始め私に絡んでくる輩も社内に増えてきた。ある顧問に因縁をつけられ頭に来て急遽家族を連れてビジネスクラスでサイパンへ遊びに行ってしまう。ちょっと頭を冷やすにはいいかと思ったが、帰国前日に腹心の部下であるチンピラ森君から電話が入り「顧問亡くなりました」と言われ仰天する。世話にもなったなった方で残念であり中部国際空港から葬儀場へ直行した。地元企業から誘いもあり転職を考えていた矢先に東京で隠居生活をしていた父親から「久々にアブダビでも遊びに行くか」と言われ9月に二人で渡航する事になった。

『後編につゞく』

投稿者: Ryoji

昼間は、政府機関勤めるUAE国家公務員。幼少期の1984年からアブダビに住み始めた多分UAEが1番長い日本人でしょう。 手汗あがり症で動画は無理なので、UAE経済や法律についてブログで発信していきたいと思います。よろしくどうぞ!

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